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幸せを運ぶ先祖供養

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第1章 先祖供養とお墓の関係
お墓の変遷と供養
 お墓は、いつ頃どのようにして生まれてきたのでしょう。古代人といわれる北京原人が生存していた50万年前の世界からごく原始的な形であれ、埋葬の習慣があったといわれています。日本では縄文の時代に地面に穴を掘り、遺体を葬っていたようですが、農耕文化が普及した弥生時代には遺体を甕(かめ)に収めて葬る甕棺墓(かめかんぼ)、石を箱型に組み合わせた石棺、木製の棺などを使い埋葬するお墓があらわれました。大和朝廷による統一国家ができた4世紀以後、次々に大きなお墓を建て権力の象徴としました。この時代を古墳時代と呼びます。大阪府堺市で発見された仁徳天皇のお墓は仁徳天皇陵(にんとくてんのうりょう)といわれ全長、486mで世界最大の面積を持つ前方後円墳です。古墳の内部には、死者が眠る広い部屋が設けられ、埴輪などの装飾品が納められています。
 これはお墓が死者の家であることを意識したもので、この頃から死者の霊が死後の世界に行っても安らかであれと儀式やお祭りをしたのです。祭祀の始まりです。
 やがて、大きな古墳を造ることをいさめて、身分に応じた大きさを定めた薄暮令(はくぼれい)が出ました。平安時代は火葬の時代です。造寺・造塔が盛んで塔を建てる風習が生じ、墓標を建てるようになったのです。
 平安末期から鎌倉時代にかけて、石碑形式の墓石が普及してきました。さらに、室町時代にかけて、位牌と戒名が中国から伝わり、その影響を受けて、位牌型や角柱型の墓石が造られました。今日の墓石に近いものです。
 江戸時代はキリスト教を禁じ、檀家制度(だんかせいど)が確立され一般の人もお墓を建てて死者を葬り供養するようになり、寺院内にお墓が造るのが一般化しました。しかし、士農工商の身分制度ができたことにより、自由な大きさでお墓を作ることはできませんでしたが、戒名を刻み、夫婦で祀り、子供が親の墓を建てるという吉相墓の形式を取り入れていました。
 明治になると神仏分離の考えが広まり、お墓の建て方も自由になりましたが、親の戒名を正面に刻み、子が親の墓を建てるという風習はそのまま残っていました。
 このような建て方は、親子関係、主従関係などの上下関係がうまくいき、長男が家を継ぎ、代々相続し、家系が繁栄する祀り方なのです。
 時代が経るに従って墓地の事情も大きく変わっていきます。土地の高騰や先祖との関係が希薄になり、個人墓は少なくなり「〇〇家之墓」「先祖代々之墓」などを正面に刻み、代々このお墓で親や先祖を一緒に祀るお墓の建て方が主流になってきました。お墓が先祖の霊を祀る供養塔という考え方から、お墓イコールお骨の安置場所という非常に即物的な考え方に変わってきたのです。その結果、室内のお墓やロッカーのお墓などが出てきたのです。このような墓は相続人にまつわる問題が起こってくるケースが多いことがわかってきました。子供が親のお墓を建てるという大事な責任のある仕事を放棄することにより、子供の生活力が弱くなり、相続者が出ずに家系相続は養子相続に頼ったり、絶家となる場合が多くみられます。
 お墓という言葉の起源はいろいろありますが、果処(はてか)の意味とする説や葬処(はふりか)の略とする説が有力とされています。墓の漢字の莫の部分は、太陽が草の中に沈んで隠れる意味で、墓とは死者を見えなくする土盛りの意味があるのです。大切な人や愛する人を供養するには、まず、土に還し、供養ができるお墓を建立すべきです。 
甕棺墓
甕や壷を棺として埋葬する墓。甕棺内部では遺体を屈める屈葬の形態がとられている。死者の魂を遺体に留めておこうという思想背景があったと思われます。

仁徳天皇陵
第16代天皇のお墓。
日本最大の前方後円墳で墓石面積は世界最大。大仙陵古墳ともいわれる。

薄暮令
645年大化の改新の翌年に出された。大きな古墳を作ることをいさめ、身分に応じた大きさの墓を作るように定めた法令。

檀家制度
徳川幕府がキリスト教に入ることを禁止し、民衆を支配するために人々は必ずどこかのお寺に所属して人別(戸籍)登録をする制 度。
果処
墓は命の果てたところ。葬処とは葬ったところという意味。